読み物:魚について

桜鯛のこと ── なぜ真鯛は日本にとって特別な魚になったのか
2026年3月16日
春になると、豊洲市場の売り場にほんのりと桜色をまとった真鯛が並びます。 産卵を前にふっくらと身を膨らませ、雌は体が桜色に染まり、雄は顔まわりに白い斑点が浮かぶ。桜の開花と時期が重なることから、春の真鯛は「桜鯛」と呼ばれてきました。 なぜ、日本人はこの魚をこれほどまでに大切にしてきたのか。その歴史は、想像よりもずっと古くから続いています。 縄文の海から ── 鯛と日本人の出会い 鯛と日本人の付き合いは、少なくとも縄文時代にまで遡ります。 青森県の二ツ森貝塚、千葉県の房総半島沿岸の貝塚から、マダイの骨が多数出土しています。貝殻の石灰質が骨の保存を助けたため、数千年前の記録が今に残りました。釣り漁で捕獲されていたと推定されており、縄文の人々にとって鯛はすでに身近な魚だったようです。 文献に鯛が現れるのは、奈良時代から。 『古事記』(712年)には、海幸彦・山幸彦の神話で「赤海鯽魚(あかめ)」として鯛が登場します。海の神が魚を集めた際、赤い鯛の喉に釣針が引っかかっていたという場面です。『日本書紀』(720年)には、神功皇后が航海中に酒を海に注ぐと鯛が酔って浮かび上がったという「浮鯛」伝説も記されています。 『万葉集』(8世紀)には、こんな歌が残っています。 醤酢(ひしほす)に蒜搗(ひるつ)き合(あ)てて鯛願ふ 我れにな見えそ 水葱(なぎ)の羹(あつもの) 「酢と醤に蒜をすりつぶして鯛を食べたいのに、目の前にあるのは水葱の汁物ばかり」。1,300年前の歌人・長忌寸意吉麻呂の嘆きです。この歌からは、8世紀の時点で鯛がすでに「憧れの魚」であったことが伝わってきます。 かつて「魚の王」は鯉だった ここでひとつ、意外な事実があります。...
天然ブリの産地が変わりつつある — 数字で見る、海の変化
2026年3月2日
この冬、富山県氷見市で異例の事態が起きました。 毎年冬の風物詩として全国のニュースを賑わせる「ひみ寒ぶり宣言」。今季はそれが、出ませんでした。10年ぶりのことです。 豊漁だった前シーズンは69,351本が水揚げされましたが、今季は年明け以降の1日平均がわずか170本。豊漁年には1日1,000〜2,000本が揚がることを考えると、その差は歴然です。仕入れ値は前年の3〜4倍にまで高騰しました(北陸中日新聞、2025年12月)。 私たちも今冬、氷見の天然ブリをお届けすることができず、大変残念な思いをしました。 では、いったいブリに何が起きているのでしょうか。公開されている統計や専門家の報告をもとに、見えてきたことを整理してみます。 全国のブリ漁獲量 — 増えて、そして減り始めた まず、日本全体の天然ブリ漁獲量の推移を見てみましょう。 水産庁の資源評価(2024年12月公表)によると、全国の漁獲量は2010年頃に急増し、2014年に約13.6万トンでピークを迎えました。しかしその後は減少に転じ、2023年は約11.4万トンとなっています。 資源の入り口にあたる「加入尾数」(新たに漁獲対象に加わる若い魚の数)も、2009〜2014年の1.6億〜2.1億尾という高水準から低下し、2023年には0.9億尾と、2003年以降で最も低い水準になりました。 全体のパイは、縮小に向かっています。 産地が動いている — 北海道の台頭と、従来産地の変化...
土用の丑の日とうなぎ〜江戸時代の商業的工夫が育んだ夏の風物詩〜
2025年8月11日
``` 土用の丑の日とうなぎ〜江戸時代の商業的工夫が育んだ夏の風物詩〜 ``` 現代にも通じる江戸時代の商業的工夫 8月の猛暑日、「今日は土用の丑の日だから、うなぎを食べに行こう」という会話が日本全国で交わされることでしょう。しかし、この「土用の丑の日にうなぎを食べる」という習慣が、実は江戸時代の商業的な工夫から育まれた可能性が高いということをご存知でしょうか。そこには、現代のビジネスにも通じる興味深い販促の知恵が隠されていたのです。 奈良時代から続くうなぎと夏バテの関係 うなぎと夏の関係は、実は非常に古い歴史を持っています。日本最古の歌集『万葉集』には、大伴家持が詠んだ「石麻呂に われ物申す 夏痩に良しといふ物そ 鰻取り食せ」という歌が収められています。石麻呂(いしまろ)は、百済から渡来した名医・吉田連宜の息子で、大伴家持の親友。生まれつき非常に痩せていたため、家持から『夏痩せにうなぎを食べなさい』とからかいの歌を詠まれた人物です。この歌は現代語に直すと「石麻呂よ、私が申し上げる。夏痩せに良いというものがある。うなぎを捕って食べなさい」という意味で、1200年以上前の奈良時代には、すでに夏バテにうなぎが効くという認識があったことを示しています。 この認識は決して迷信ではありませんでした。農林水産省の広報用Webマガジンでも紹介されているように、うなぎには夏バテ予防に必要な栄養素が豊富に含まれています。特にビタミンA、B群、E、Dなどの栄養が豊富で、ビタミンAは100グラム食べれば成人の一日に必要な摂取量に達する量が含まれているのです。 古くから認められていた栄養価 高たんぱくで栄養価が高く、特にビタミンA、ビタミンE、DHA、EPAなどの栄養素を豊富に含むうなぎは、夏の暑さで消耗しやすい体力を回復させる理想的な食材です。この認識は奈良時代にはすでに確立されていたことが、文献からも明らかになっています。 江戸時代の商業革命:諸説ある起源 では、なぜ「土用の丑の日」という特定の日にうなぎを食べる習慣が生まれたのでしょうか。その背景には、江戸時代の商業的な事情がありました。...
ハモ(鱧)のこと
2025年8月5日
ハモ(鱧)〜京都の夏を支えた魚〜 祇園祭を「鱧祭り」と呼ぶ理由 8月の京都を歩けば、料亭や居酒屋の軒先で「鱧料理」の文字を目にすることでしょう。実は7月から8月にかけての京都の夏は、一匹の魚によって支えられてきた長い歴史があります。その魚こそが「ハモ(鱧)」です。 国の重要無形民俗文化財、ユネスコ無形文化遺産でもある「祇園祭」(7月1日から31日に開催される伝統行事)は、「はも祭り」の別称でも親しまれており、行事食としてハモ料理が振る舞われるのです。なぜ海から遠い内陸の京都で、ハモがこれほどまでに重要な存在となったのでしょうか。 生命力の強さが運んだ奇跡 ハモはウナギ目・ハモ科に属する海水魚で、大きい個体は2m近い体長になることもある魚です。口には鋭い歯が並んでおり、気性も荒い。水揚げされたあとも、激しく動きまわり噛みついてくることもあるという獰猛な性格を持ちながら、見た目に反して、肉質は美しい白身で淡白な味わいという魚なのです。 京都でハモ文化が発達した最大の理由は、その並外れた生命力にあります。生命力の強いハモなら、遠方からでも京都まで生きたまま運んでくることができたからだといわれているのです。 農林水産省の資料によると、丹後の海では年に数トン程度が水揚げされているが、京都で食べられているハモの多くは瀬戸内や玄界灘などでとれたものです。輸送技術が未発達だった時代、夏の暑さの中を生き抜いて京都に到着できる海魚は、ハモしかいませんでした。 職人技が生んだ「骨切り」の芸術 しかし、ハモには大きな問題がありました。小骨が多く、調理に手間がかかるのです。この難題を解決したのが、京都の料理人たちが編み出した「骨切り」という技術でした。 骨切りには熟達した技術が必要で、「京都の料理人は骨切りを覚えてから一人前」といわれるほどです。具体的には、腹側から開いたハモの身に、皮を切らないように細かい切りこみを入れて小骨を切断する技法で、下手にこれをやると身が細かく潰れてミンチ状になってしまい、味、食感ともに落ちてしまうため熟練が必要な作業なのです。 その技術の高さは、「一寸(約3cm)につき26筋」包丁の刃を入れられるようになれば一人前といわれるという基準からもうかがえます。この骨切り技術により、京都ではハモの消費が飛躍的に増えたのです。 江戸時代に花開いたハモ料理文化 ハモ料理の多様性と人気は、江戸時代の文献からも確認できます。最も注目すべきは、寛政7(1795)年に出た「海鰻百珍(はむひゃくちん)」には、100種類以上もの鱧の料理法が載っていて、骨切りにも言及していることです。 この「海鰻百珍」は、国立情報学研究所(CiNii)の学術データベースにも収録されており、江戸時代中・後期の「百珍もの」と言われた料理書の一つとして、豆腐、鯛、卵、蒟蒻、甘藷、柚、ハモなどの各素材について各々約100種類、計840種もの料理法を載せた貴重な史料です。...