目には青葉 山ほととぎす 初鰹 ── 山口素堂
青葉は目に、ほととぎすは耳に、初鰹は口に。三つの感覚で初夏を詠んだこの句は、延宝6年(1678年)刊の『江戸新道』に収録されています。素堂自身が「目には青葉といひて、耳には郭公、口には鰹と」と説明したとされ、和歌で古くから詠まれてきた青葉とほととぎすに「初鰹」を加えたところが、俳諧の新しさでした。
春から初夏にかけて、黒潮に乗って北上してくる鰹。この魚と日本人の付き合いは、8,000年前の貝塚にまで遡ります。
堅魚(かたうお) ── 税として納められた魚
鰹の語源は「堅い魚」を意味する「堅魚(かたうお)」です。
鰹は傷みやすい魚です。古代の人々は、これを硬くなるまで干して保存食にしました。干すと堅くなるから「堅魚」。やがてこの漢字に「鰹」の字が当てられるようになります。
魚としてのカツオが文献に初めて現れるのは、養老律令(718年)です。税の貢納品として「堅魚」が記載されました。注釈書『令集解』には、税として納めるべき三種の鰹製品が具体的に記されています。
- 堅魚(かたうお) ── 生魚を細かく切ってそのまま干したもの
- 煮堅魚(にかたうお) ── 鰹を煮てから干したもの。現在の鰹節の原形です
- 堅魚煎汁(かつおのいろり) ── 煮出し汁を煎じ詰めた濃縮液体
平城京跡から出土した木簡には「麁堅魚(あらがつお)」の文字が残っており、天平5年(733年)に朝廷へ堅魚が送られた記録が確認されています。
『万葉集』(8世紀)にも鰹は登場します。高橋虫麻呂が浦島子を詠んだ長歌(巻九・第1740番歌)に「堅魚釣 鯛釣矜」——浦島子が堅魚や鯛を釣って自慢する場面が描かれています。
延喜式(927年)には、堅魚製品の貢納国として伊豆・土佐・紀伊など太平洋側の十カ国が記載されています。なかでも土佐国(現在の高知県)は、カツオ製品のみを貢納した「カツオの国」として記録に残ります。
「勝つ魚」── 武士に愛された縁起物
「鰹」は「勝つ魚」。
この語呂合わせから、鰹は戦国時代より武士に縁起物として重用されました。鰹節は「勝男武士(かつおぶし)」と当て字され、「強くたくましい男の子が生まれますように」という願いが込められました。出陣前に鰹を食す武将もいたと伝えられています。
天文6年(1537年)の夏、戦国武将・北条氏綱の乗り船に一尾の鰹が飛び込んできたという逸話があります。氏綱はこれを「勝負にかつうを」と喜び、続く合戦で勝利。以後、出陣前に鰹を食すことが吉例となったと『北条五代記』は伝えています。
結婚式の引き出物に鰹節が贈られる風習は、この「勝男武士」の縁起に由来します。出産祝い、七五三、入学祝いにも鰹節が使われるのは、この時代からの名残です。
鰹節 ── 千年をかけた技術の結晶
堅魚から鰹節へ。その製法は千年以上の時をかけて磨かれてきました。
室町時代に焙乾技術が導入され、現在の鰹節に近いものが生まれます。文献上「鰹ふし」の語が初めて現れるのは、1513年(永正10年)の『種子島家譜』です。
大きな転機となったのは、1674年(延宝2年)。紀州印南出身の漁民・角屋甚太郎が土佐で燻煙加工法(燻乾法)を開発しました。ナラやクヌギの薪による焙乾法は、鰹節の風味を劇的に向上させます。
1704年、鰹節職人の森弥兵衛が紀州から枕崎(鹿児島)へ製法を伝えました。さらに安永年間(1780年頃)、土佐与市が安房と伊豆に技術を伝承。伊豆ではカビ付けを2〜3回以上繰り返す「伊豆節」が誕生し、明治30年頃には3〜6回のカビ付けを施す「本枯節」(焼津節)が登場します。
奈良時代の「干しただけの堅魚」から、江戸中期の「燻乾」、そして明治の「本枯節」へ。鰹節は、日本の食文化における技術の結晶ともいえる食材です。
江戸の熱狂 ── 初鰹ブームはなぜ生まれたか
江戸時代、初鰹に対する江戸っ子の熱狂は、現代の感覚からすると度を超えたものでした。
その根底にあったのは「初物信仰」です。「初物七十五日」——初物を食べると75日寿命が延びるという俗信が庶民に広く浸透していました。初鰹は「初物」であると同時に「勝つ魚」でもあり、二重の縁起物。それだけでも十分ですが、さらに江戸っ子特有の「粋(いき)」の美学が加わります。季節の先取り——「走り」を好むことが粋とされ、値段を気にせず「走り」を買ってみせることが江戸っ子の心意気でした。
ブームは江戸時代を通じて続きましたが、特に明和から文化・文政の頃(1764〜1830年)が最盛期だったとされています。
幕府もこの熱狂を黙って見ていたわけではありません。寛文12年(1672年)、幕府は魚介・鳥・野菜・果物の出荷時期を制限する令を発布しますが、効果は薄かったようです。天保13年(1842年)には、水野忠邦の天保の改革の一環として初物売買禁止令が出されました。料理茶屋が競って高価な初物を買い求めることを「不埒」としたのです。しかし、それでも初鰹への情熱は止まりませんでした。
ちなみに、この熱狂は江戸特有の現象だったようです。関西では瀬戸内海の新鮮な魚が容易に手に入り、初鰹にここまで大金を払う文化は馴染まなかったと伝えられています。
3両の魚 ── 大田南畝が記録した日本橋魚河岸
初鰹がどれほど高価だったのか。具体的な記録を残してくれたのが、幕臣にして文人の大田南畝(蜀山人、1749〜1823年)です。
文化9年(1812年)3月25日、日本橋魚河岸に初鰹が17本入荷しました。南畝はその配分を記録しています。
- 6本 ── 将軍家お買上げ
- 3本 ── 料亭・八百善が2両1分で購入
- 1本 ── 歌舞伎役者・三代目中村歌右衛門が3両で購入。大部屋役者に振る舞った
- 残り8本 ── 魚屋に流通
3両とはどれほどの金額か。当時の1両は約6,000文。米1石(年間消費量約150kg)がおよそ7,000文ですから、初鰹1本(3両=約18,000文)は米約2.5石分、つまり一人の年間の米消費量を超える金額です。現代換算では約9万〜27万円に相当するとも。
一方、秋の最盛期には大ぶりの鰹が200文ほどで手に入りました。初鰹は最盛期の約90倍。いかに江戸っ子が「走り」に狂っていたかがわかります。
松尾芭蕉の高弟・宝井其角(1661〜1707年)はこう詠みました。
まな板に 小判一枚 初鰹
まな板の上に小判を置くほどの価値がある——。また、こんな川柳も残っています。
初鰹 女房に小一年いわれ
初鰹を買ったことで、女房に1年近く文句を言われる。「女房を質に置いても初鰹」という有名な川柳は、決して大げさではなかったのかもしれません。
辛子で食う ── なぜ「わさび」ではなかったのか
ここで、現代の感覚からすると少し意外な事実があります。
江戸時代、初鰹は辛子(からし)で食べるのが定番でした。生姜でもわさびでもなく、辛子です。
初かつお 辛子がなくて 涙かな
辛子がなくて泣くほど、初鰹と辛子は切り離せない組み合わせだったのです。「そこが江戸 小判を辛子みそで食い」という川柳からは、辛子味噌で食べていた様子もうかがえます。
では、なぜ辛子だったのか。いくつかの理由が考えられています。
わさびが手に入らなかった
まず、わさびが庶民に普及したのは文化・文政年間(1804-1830)のこと。握り寿司のブームに乗ってようやく広まりました。それ以前は武士や貴族の食材であり、徳川家康がわさびを珍重して伊豆の栽培地を幕府直轄地にしたほど希少なものでした。明治初期の記録でも、わさび5本が30銭に対し、辛子は8銭。わさびは辛子の約4倍の値段だったのです。
一方、和からしは弥生時代に中国から渡来し、奈良時代の大日本古文書(739年)、延喜式(927年)にも記載がある歴史の古い薬味。安価で庶民に広く行き渡っていました。初鰹ブームの最盛期(1700年代)には、わさびはまだ庶民の手に届かず、辛子が自然な選択肢だったのです。
醤油もまだ普及途上だった
実は、醤油もまだ庶民に十分には行き渡っていませんでした。江戸初期は上方からの「下り醤油」が主流で高価。江戸中期に下総国(野田・銚子)で濃口醤油が発展しますが、蕎麦や天ぷら、蒲焼きなど醤油が不可欠な江戸料理が完成するのは文化・文政年間以降です。
つまり初鰹ブームの時代には、現代の「醤油+わさび」という食べ方自体が存在していなかったのです。当時の刺身は酢系統の調味が主流で、辛子酢・辛子酢味噌・山椒味噌酢などが標準的な食べ方でした。
殺菌の実用性
和からしの辛味成分であるアリルイソチオシアネートには、サルモネラ菌や腸炎ビブリオなどの増殖を抑える殺菌作用があります。冷蔵技術のない時代、相模湾や伊豆沖から押送船で運ばれた鰹は、江戸に届く頃にはどうしても鮮度が落ちる。辛子は美味しさのためだけでなく、衛生面でも合理的な選択だったと考えられています。
食べ方の変遷
興味深いのは、現在の「鰹のたたき+生姜+ポン酢」という組み合わせが、実は比較的新しいスタイルだということです。
江戸後期の『守貞謾稿』には、鰹を「大根おろしとしょうゆで食べるのがいい」と記されており、この頃には辛子から醤油系統への過渡期にあったようです。明治期には山葵醤油・生姜醤油が登場し、大正3年(1914年)の粉わさび製造開始で「刺身=わさび醤油」が画一化されていきます。
そして味付けポン酢が全国に普及したのは、1967年のミツカン「味ぽん」全国発売以降。つまり「生姜+ポン酢」の歴史は60年ほどしかなく、江戸時代の「辛子」の方がはるかに長い歴史を持っているのです。
今でも八丈島では、わさびが入手できなかった伊豆諸島の伝統として、辛子を使った「島寿司」が守り続けられています。池波正太郎は著作の中で「鰹は辛子で」と推奨しており、この食べ方を大切にする鮨屋も現存します。
たたきの起源 ── 山内一豊の禁止令
鰹のたたき——「土佐造り」の起源にも諸説あります。
もっとも知られているのは、土佐藩主・山内一豊が食中毒防止のため鰹の生食を禁止したという説です。しかし、どうしても鰹を食べたい土佐の人々は、表面だけ炙って「焼き魚」と称して食べた。これが鰹のたたきの始まりとされています。
ほかにも、漁師が船上で藁や松葉で表面を焼いたという説、鰹節製造時の残り部分を焼いたのが起源という説もあります。「たたき」という名前自体は、包丁がまな板を叩く音に由来するとの見方もあるようです。
初鰹と戻り鰹 ── 江戸っ子が「走り」を選んだ理由
春から初夏(3〜5月)に北上する初鰹は、餌場に向かう途中で水揚げされるため、身が引き締まったさっぱりとした赤身が特徴です。秋(9〜11月)に南下する戻り鰹は、夏の間にたっぷり餌を食べて脂を蓄えており、もっちりと濃厚。
現代の感覚では、脂ののった戻り鰹の方が好まれそうです。しかし江戸っ子は初鰹を選びました。さっぱりとした味が江戸っ子の口に合ったこともあるでしょう。しかしそれ以上に、「走り」を食べることそのものが粋だったのです。
相模湾や伊豆沖で水揚げされた鰹は、押送船(おしおくりぶね)と呼ばれる高速船で日本橋魚河岸に運ばれました。焼津では「八丁櫓(はっちょうろ)」とも呼ばれたこの船は、初鰹を少しでも早く江戸に届けるために全速力で漕がれたのでしょう。品川沖から船を出し、三浦三崎から来る押送船に金一両を投げ込めば、船頭が鰹一尾を差し出すという調達法もあったと伝えられています。
おわりに
8,000年前の貝塚から始まり、奈良時代には税として朝廷に納められ、戦国武将には「勝つ魚」として愛され、江戸では一尾3両の値がつき、幕府が二度も禁止令を出すほどの熱狂を生んだ魚。
初鰹を巡る歴史をたどると、日本人が「旬」というものをどれほど大切にしてきたかが見えてきます。季節の先取りに粋を感じ、初物に寿命の延長を願い、一尾の魚に年間の米消費量を超える対価を払う。そこには合理性を超えた、食への情熱がありました。
辛子で食べた時代から、生姜とポン酢の現代まで。食べ方は変わっても、春になると初鰹を待ちわびる気持ちは、江戸時代からさほど変わっていないのかもしれません。
参考資料
- 国立国会図書館「本の万華鏡」第17回
- にんべん「鰹節の歴史」
- ヤマキ かつお節大百科 歴史編
- 歌舞伎座「江戸食文化紀行 no.12 江戸の初鰹」
- 和樂web「初カツオフィーバーに沸く江戸の初夏」
- 三越伊勢丹 FOODIE「初鰹の雑学」
- 魚食普及推進センター(大日本水産会)「浮世絵から学ぶ初ガツオ」
- 国立国会図書館レファレンス協同データベース(山口素堂の句)
- 万葉集ナビ 第9巻1740番歌
- J-STAGE「古代諸国貢納水産物の分布について」
- 宗田節の新谷商店「鰹節の歴史」
- 山本鮮魚店「かつおのたたきの発祥や由来」
- 農林水産省「からしやわさびの抗菌成分」
- J-STAGE「アリルイソチオシアネートによる食品の健全性確保」
- 金印わさび「わさびの歴史」
- 日本醤油協会「醤油の歴史」
- ミツカン「味ぽんHISTORY」
- 八丈島観光協会「島寿司」
- kotobanomado.jp「初鰹」