春になると、豊洲市場の売り場にほんのりと桜色をまとった真鯛が並びます。
産卵を前にふっくらと身を膨らませ、雌は体が桜色に染まり、雄は顔まわりに白い斑点が浮かぶ。桜の開花と時期が重なることから、春の真鯛は「桜鯛」と呼ばれてきました。
なぜ、日本人はこの魚をこれほどまでに大切にしてきたのか。その歴史は、想像よりもずっと古くから続いています。
縄文の海から ── 鯛と日本人の出会い
鯛と日本人の付き合いは、少なくとも縄文時代にまで遡ります。
青森県の二ツ森貝塚、千葉県の房総半島沿岸の貝塚から、マダイの骨が多数出土しています。貝殻の石灰質が骨の保存を助けたため、数千年前の記録が今に残りました。釣り漁で捕獲されていたと推定されており、縄文の人々にとって鯛はすでに身近な魚だったようです。
文献に鯛が現れるのは、奈良時代から。
『古事記』(712年)には、海幸彦・山幸彦の神話で「赤海鯽魚(あかめ)」として鯛が登場します。海の神が魚を集めた際、赤い鯛の喉に釣針が引っかかっていたという場面です。『日本書紀』(720年)には、神功皇后が航海中に酒を海に注ぐと鯛が酔って浮かび上がったという「浮鯛」伝説も記されています。
『万葉集』(8世紀)には、こんな歌が残っています。
醤酢(ひしほす)に蒜搗(ひるつ)き合(あ)てて鯛願ふ 我れにな見えそ 水葱(なぎ)の羹(あつもの)
「酢と醤に蒜をすりつぶして鯛を食べたいのに、目の前にあるのは水葱の汁物ばかり」。1,300年前の歌人・長忌寸意吉麻呂の嘆きです。この歌からは、8世紀の時点で鯛がすでに「憧れの魚」であったことが伝わってきます。
かつて「魚の王」は鯉だった
ここでひとつ、意外な事実があります。
室町時代まで、日本で「魚の王」と呼ばれていたのは鯛ではなく、鯉でした。
理由は明快です。京の都は海から遠い。新鮮な海水魚が届きにくい内陸の都では、淡水魚こそが手近で新鮮な魚肉であり、奈良時代にはすでに「魚のなかでは鯉がいちばん」という序列ができあがっていました。
さらに中国文化の影響も大きかったようです。黄河上流の急流「竜門」を登りきった鯉が龍に変じるという伝説は『後漢書』に記され、日本にも伝わりました。「登竜門」の語源であり、端午の節句に鯉のぼりを立てる風習の起源でもあります。
鯉は医学的にも珍重されました。日本最古の医学書『医心方』(984年、丹波康頼撰)には鯉の薬効が記録されています。中国の『本草綱目』にも「乳汁を下し、腫を消す」と記載があり、妊婦のむくみ改善や産後の母乳分泌促進に用いられました。
天皇の御前で切られる唯一の魚
鯉がいかに特別だったかを物語る記録が、兼好法師の『徒然草』(1330年頃)第118段に残っています。
鯉ばかりこそ、御前にても切らるる物なれば、やんごとなき魚なり
(鯉だけは天皇の御前でも切られる魚であるから、高貴な魚である)
同じ段には「鯉の羹(あつもの)食ひたる日は、鬢そそけずとなん」とも。鯉の吸い物を食べた日は髪が毛羽立たない、と信じられていたようです。
四条流の庖丁道では、鯉の扱いはまさに「料理の中心」でした。1489年成立の『四条流包丁書』には「コイの調理こそが料理である」と明記されています。鯉の切り方には四十種以上の型があり、「竜門の鯉」「長久の鯉」「神前の鯉」「出陣の鯉」「梅見の鯉」など、それぞれに名前がつけられていました。
庖丁式の儀式も荘厳なものです。烏帽子・直垂の平安装束を身にまとい、右手に庖丁、左手に真魚箸を持ち、雅楽の調べに合わせて、魚体に一切手を触れずに鯉を切りさばく。およそ30分。この儀式は現在も千葉県南房総市の高家神社で毎年奉納されています。
昔の人はどう食べていたか
室町時代の人々は鯉をどのように食べていたのでしょうか。
鯉こく(濃漿)は、輪切りにした鯉を味噌で長時間煮込んだ汁物です。「こく」は「濃漿」の略で、味噌を用いた濃い汁物を意味します。江戸時代には「鯉汁」「胃入り汁」とも呼ばれました。かつてはウナギやフナ、スッポンでも「濃漿」が作られていましたが、ほぼ廃れ、鯉こくだけが現代まで生き残っています。
鯉の洗いは、三枚におろした鯉をそぎ切りにし、湯または氷水で洗うことで筋肉を収縮させ、独特の弾力ある食感を出す調理法。辛子酢味噌やわさび醤油をつけて食べます。江戸後期の風俗誌『守貞謾稿』には「三都(京都・大阪・江戸)ともに洗ひというあり」と記されており、江戸時代には広く親しまれていたことがわかります。
鯉のなます(膾)は、細切りにした鯉にショウガ酢や蓼酢、酢味噌などを添えたもの。平安末期の『類聚雑要抄』(1136年)には、鯉が鯛や鮎とともに「生物(なまもの)」として列挙されています。
室町幕府の管領・細川勝元(1430-1473年)は鯉の鑑別で知られた人物でした。『塵塚物語』によれば、勝元は淀川産の鯉についてこう語っています。
「他の国の鯉は、捌いて酒に浸すと、一度箸を入れればその汁は濁ってしまいます。しかし、淀の鯉はそうではありません。どれだけ浸しておいても、汁の色は薄く、濁りがありません。これこそ名物である淀の鯉の証拠です」
王座交代 ── 江戸で鯛が最高位の魚になるまで
この長い鯉の時代に終わりを告げたのが、江戸幕府の誕生です。
徳川幕府が江戸に開かれ、海に近い江戸が政治の中心になると、新鮮な海産物が手に入る環境が生まれました。武家社会の新しい価値観のもとで、鯛は鯉に代わり最高位の魚へと上り詰めていきます。
1617年(元和3年)には、大和屋助五郎が駿河から江戸へ生きた鯛を運ぶ独占流通システムを確立しました。将軍家の食卓に新鮮な鯛が届く仕組みが整ったのです。
「おめでたい」と「鯛(たい)」の語呂合わせが広く定着したのも江戸時代のことです。将軍家でも鯛は愛され、「大位(たいい)」の当て字でも持て囃されました。鯛の赤い体色——エビなど餌由来のアスタキサンチンによるもの——は、日本で古来より魔除けとされてきた赤色であり、赤と白の縁起物としても好まれました。
「鯛の鯛」をご存じでしょうか。鯛の胸びれの根元にある骨が、鯛の姿そっくりの形をしています。これが江戸時代に厄除けのお守りとして流行し、鯛の縁起物としての地位をさらに固めました。
1649年刊の『尤之双紙』には、一休宗純に帰される言葉が記されています。
人は武士 柱はひのき 魚は鯛 小袖は紅梅 花はみよしの
この一節は後に『仮名手本忠臣蔵』(1748年)で「花は桜木、人は武士」と改変されて広まりました。もとの文では、鯛は檜や桜と並ぶ「最上のもの」として挙げられています。
1695年刊の『本朝食鑑』(人見必大著)には、こう記されています。
鯛ハ本朝鱗中ノ長
(鯛は我が国の魚の長である)
鯉から鯛への王座交代は、こうして完了しました。
「桜鯛」の名はいつから
では、「桜鯛」という呼び名はいつ頃から使われていたのでしょうか。
もっとも古い記録のひとつは、鎌倉時代後期に編まれた和歌集『夫木和歌抄』です。言僧正公朝の歌にこうあります。
桜鯛 花の名なれば 青柳の糸をたれてや 人の釣りけん
「桜鯛は花の名を持つ魚だから、柳の枝を釣り糸にして人が釣ったのだろうか」。鎌倉時代には、すでに「桜鯛」という呼称が和歌の世界に存在していたことになります。
俳諧の季語としての記録は、1641年(寛永18年)刊の『俳諧初学抄』が最古とされています。江戸時代の初期には、俳諧用語として確立していました。
1695年(元禄8年)の『本朝食鑑』には、より具体的な説明が残っています。
歌書に云、春三月、さくらの花ひらきて、漁人多くこれをとる。故に桜鯛と云
春の三月、桜の花が開き、漁師が多くこれを獲る。だから桜鯛と言う——。花の季節と漁の季節が重なる、その自然の偶然が美しい名前を生みました。
生物学的には、真鯛の産卵期は春から初夏にかけて。産卵に向けて栄養を蓄え、脂がのり、身がふっくらする時期です。外海から内海へ移動する行動は「乗っ込み」と呼ばれ、「乗込鯛」も桜鯛の子季語として歳時記に載っています。
恵比寿様と鯛
右手に釣竿、左手に鯛。七福神のひとり、恵比寿様のその姿は誰もが知るところです。
興味深いのは、恵比寿が七福神の中で唯一の日本の神であるということ。その起源には、古事記のイザナギ・イザナミの子である蛭子(ヒルコ)とする説と、国譲り神話で美保の岬で釣りをしていた事代主神(コトシロヌシ)とする説があります。
釣竿と鯛の図像は、事代主神が美保で釣りをしていた伝承に由来します。「網を使わず竿で釣る」——つまり、強欲でない清い心の象徴とされました。
事代主神と恵比寿の同一視が広まったのは江戸時代のこと。七福神の概念自体は鎌倉から室町にかけて形作られましたが、釣竿と鯛を抱える恵比寿の図像が民間に浸透したのは、徳川家康の顧問・天海が「七福神巡り」を江戸の統治政策として推進してからと考えられています。18世紀中期には「えびす講」が庶民に広がり、商売繁盛の神として恵比寿と鯛のイメージが不動のものとなりました。
鯛料理一〇三種
鯛が江戸の食文化でいかに大きな存在だったかを示す資料が、1785年刊の『鯛百珍料理秘密箱』です。器土堂主人の編纂で、なんと103種もの鯛料理のレシピが収録されています。
さらに遡れば、1643年刊の日本初の体系的料理書『料理物語』では、巻頭に鯛料理が記載されています。浜焼、杉焼、蒲鉾、膾、霜降りなど、多彩な調理法が示されました。
俳句の世界でも、桜鯛は愛されてきました。
俎板に鱗ちりしく桜鯛 ── 正岡子規
包丁を取りて打撫で桜鯛 ── 松本たかし
まな板の上に散る鱗、包丁を手に取って撫でるように眺める桜鯛。魚を前にした人間の、畏敬にも似た繊細な感覚が詠まれています。
桜鯛と紅葉鯛 ── ふたつの旬
真鯛には、春と秋に二つの旬があります。
春の桜鯛は、産卵に向けて栄養を蓄えた、脂のりのよいふっくらとした身が特徴です。体が桜色に染まり、花の季節とともに訪れます。
秋の紅葉鯛は、産卵後に体力を回復し、冬に備えてたっぷり餌を食べた時期のもの。身が引き締まり、旨味が強くなります。鱗が紅葉のように赤みを帯びることからこの名がつきました。明石浦漁業協同組合では「明石浦のもみじ鯛」を兵庫県のプライドフィッシュとして登録しています。
春の桜、秋の紅葉。日本人が季節の移ろいを魚の名にまで映し込んできたことに、この国の食文化の奥深さを感じます。
おわりに
縄文の貝塚から、万葉の歌人の嘆きから、室町の庖丁式から、江戸の祝いの席から——鯛は何千年ものあいだ、日本人の暮らしとともにありました。
鯉が王だった時代から、海に近い江戸で鯛が最高位の魚へと上り詰めるまでの歴史は、日本の食文化がどのように形作られてきたかを映す鏡でもあります。
春になると、今年も豊洲市場に桜色の鯛が並びます。
何千年も前からこの島の海で泳ぎ、人々に釣られ、神に供えられ、歌に詠まれ、庖丁式で切られ、祝いの席に並び、恵比寿様の腕に抱かれてきた魚。その姿を見るたびに、日本人にとって鯛がいかに特別な存在であるかを思います。
参考資料
- 世界遺産 北海道・北東北の縄文遺跡群「二ツ森貝塚」
- 南房総いいとこどり「鯛について」
- 美味求真「鯛」「四条流」「細川勝元」
- 万葉集ナビ 巻16-3829
- レファレンス協同データベース(国立国会図書館)
- MCF Japan「鯉の食文化」
- 歌舞伎座 江戸食文化紀行 no.6
- 味の素食の文化センター「包丁式」
- 高家神社「庖丁式」
- 農林水産省 うちの郷土料理「鯉こく」
- WA・TO・BI「洗いとは」「膾」
- 徒然草 現代語訳つき朗読 第118段
- コトバンク「桜鯛」
- 季語と歳時記「桜鯛」
- nippon.com「七福神」
- Highlighting Japan(政府広報)「明石鯛」
- プライドフィッシュ(全漁連)「明石浦のもみじ鯛」
- tenki.jp「鯛はなぜ縁起がよいといわれるの?」
- 日本伝承大鑑「浮鯛神社」
- 市場魚貝類図鑑「コイ」