ハモ(鱧)のこと

ハモ(鱧)のこと

2025年8月5日麻生陽介

ハモ(鱧)〜京都の夏を支えた魚〜

祇園祭を「鱧祭り」と呼ぶ理由

8月の京都を歩けば、料亭や居酒屋の軒先で「鱧料理」の文字を目にすることでしょう。実は7月から8月にかけての京都の夏は、一匹の魚によって支えられてきた長い歴史があります。その魚こそが「ハモ(鱧)」です。

国の重要無形民俗文化財、ユネスコ無形文化遺産でもある「祇園祭」(7月1日から31日に開催される伝統行事)は、「はも祭り」の別称でも親しまれており、行事食としてハモ料理が振る舞われるのです。なぜ海から遠い内陸の京都で、ハモがこれほどまでに重要な存在となったのでしょうか。

生命力の強さが運んだ奇跡

ハモはウナギ目・ハモ科に属する海水魚で、大きい個体は2m近い体長になることもある魚です。口には鋭い歯が並んでおり、気性も荒い。水揚げされたあとも、激しく動きまわり噛みついてくることもあるという獰猛な性格を持ちながら、見た目に反して、肉質は美しい白身で淡白な味わいという魚なのです。

京都でハモ文化が発達した最大の理由は、その並外れた生命力にあります。生命力の強いハモなら、遠方からでも京都まで生きたまま運んでくることができたからだといわれているのです。

農林水産省の資料によると、丹後の海では年に数トン程度が水揚げされているが、京都で食べられているハモの多くは瀬戸内や玄界灘などでとれたものです。輸送技術が未発達だった時代、夏の暑さの中を生き抜いて京都に到着できる海魚は、ハモしかいませんでした。

職人技が生んだ「骨切り」の芸術

しかし、ハモには大きな問題がありました。小骨が多く、調理に手間がかかるのです。この難題を解決したのが、京都の料理人たちが編み出した「骨切り」という技術でした。

骨切りには熟達した技術が必要で、「京都の料理人は骨切りを覚えてから一人前」といわれるほどです。具体的には、腹側から開いたハモの身に、皮を切らないように細かい切りこみを入れて小骨を切断する技法で、下手にこれをやると身が細かく潰れてミンチ状になってしまい、味、食感ともに落ちてしまうため熟練が必要な作業なのです。

その技術の高さは、「一寸(約3cm)につき26筋」包丁の刃を入れられるようになれば一人前といわれるという基準からもうかがえます。この骨切り技術により、京都ではハモの消費が飛躍的に増えたのです。

江戸時代に花開いたハモ料理文化

ハモ料理の多様性と人気は、江戸時代の文献からも確認できます。最も注目すべきは、寛政7(1795)年に出た「海鰻百珍(はむひゃくちん)」には、100種類以上もの鱧の料理法が載っていて、骨切りにも言及していることです。

この「海鰻百珍」は、国立情報学研究所(CiNii)の学術データベースにも収録されており、江戸時代中・後期の「百珍もの」と言われた料理書の一つとして、豆腐、鯛、卵、蒟蒻、甘藷、柚、ハモなどの各素材について各々約100種類、計840種もの料理法を載せた貴重な史料です。

当時のハモの人気ぶりは、天保11(1840)年の「包丁里山海見立角力」という食材の番付では、鱧が東方(魚)の関脇で、人気のほどがわかる。最高位の大関が鯛だったことからも明らかです。魚類で第2位という高い地位を占めていたのです。

祇園祭とハモの深い結びつき

ハモと祇園祭の関係は、季節的な要因と深く結びついています。鱧は梅雨の雨を飲んで旨くなると言われており、梅雨の明ける7月になると脂が乗り始め旬となるのです。

この時期的な一致により、梅雨の時期から7月末頃までが旬となる。京都の街が祇園祭で賑わう時季が一番おいしいことから、祇園祭は別名「鱧祭(はもまつり)」と呼ばれることもになりました。

さらに興味深いのは、7月3日(祇園祭の期間中)八坂神社にて淡路島観光協会により、「はも道中」で運ばれた鱧が奉納されるという現代でも続く行事があることです。これは古くからかつて御食国(みけつくに)と言われた淡路島から宮中にハモ(鱧)を献上していたことに因んで行われている伝統なのです。

縄文時代から続く食文化

ハモと日本人の関わりは想像以上に古く、縄文時代から食べられていた。各地の貝塚から鱧の骨が出てくるのです。平安時代には干物にして朝廷に献上されていたという記録もあり、古くから珍重されていた食材だったことがわかります。

現代に受け継がれる伝統

現在でも、調理に手間がかかるため、家庭でつくられることは少なく、飲食店で食べるのが一般的です。提供する店のなかには、「はもの焼き物」や「はもしゃぶ」、「はもずし」といったハモづくしのコースを用意している場合もあるように、その伝統は今も大切に守られています。

おわりに

海から遠い京都で、なぜこれほどまでにハモが愛されるようになったのか。それは単なる偶然ではなく、魚の持つ生命力、職人の技術力、そして季節の巡り合わせが生み出した必然だったのです。現代の冷蔵・冷凍技術では想像もつかない困難を乗り越えて、京都の夏の食卓を彩り続けてきたハモ。その歴史を知ることで、一匹の魚が織りなす壮大な文化の物語を感じることができるでしょう。

毎年8月、祇園祭の余韻が残る京都でハモ料理を味わう時、その一口一口に込められた数百年の歴史と職人の技を思い起こしてみてはいかがでしょうか。


参考文献

  • 農林水産省「うちの郷土料理:はもの焼き物 京都府」
  • 文化庁無形文化遺産関連資料
  • 国立情報学研究所CiNii「江戸時代料理本集成」
  • 原田信男校註・解説『料理百珍集』(八坂書房)
  • 京都府農林水産技術センター海洋センター

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